「告白」つづき

さて昨日書き足りなかったこと。
これは町田康版「ヴァリス」だ。ヴァリスを知らない人に説明すると、かの有名なSF作家フィリップ・K・ディックが最晩年に書いた問題小説で、実際読んだ人はわかると思うが、一体ナニが書いてあるのかサッパリわからない物語なのだ。イヤすでに物語は破綻しており、そこに記されているものはディックの個人宗教の教典とでも言うべき支離滅裂なものなのでである。ひょっとして深い意味があるのかもしれなかったが、少なくとも凡人の自分にはサッパリ訳がわからなかった。
わからないなりにもディック教の教典という感じはつかめた。すると、この「告白」は町田教の教典なのか?あたらずしも遠からず。熊太郎の思考という形を取った教典に違いない。かなりねじれ曲がってはいるし、利己的だったり訳がわからなかったりするのだが、それを著した作者にとってはそれが彼の行動原理とでも言うべき教典なのであろう。しかしその教典の作者からして「これはなかろう」というメチャクチャさ。しかし作者的には、それを理論的に正当化しなければならない。ストーリー的にはむちゃくちゃな展開とは思えるが、しかしそれが必然的な様に現れる「町田康的神の登場」前作「パンク侍」ではそれは尻振り教での最終解脱、ていうか、奇跡(空中に浮き上がり消え失せる)だが、「告白」では空飛ぶ円盤だ。神が円盤(小さなピラミッド状の浮遊物体)の姿となり、すべて熊太郎の思考と行動を肯定してくれるのである。それ故自分の妻をも含めた河内十人切りの悪行は正当化され、また、その贖罪とでもいうべきにしては、ここまで苦楽を共にしてきた義兄弟弥五郎の殺害という裏切り行為も、すべて正当化されるのである。
さて、ここまで自分の書いた文章を読み返してみたが、我ながらナニを書いてあるかサッパリわからない。しかしそれも正当化されすべてがゆるされる、そんな包容力のある作家こそが町田康なのだ。
そんなわけはない。
あ、スミマセン、ネタバレでした(遅いって)
告白  パンク侍、斬られて候