古い友人

 学生時代からの友人でイラストレーターでミュージシャン(というか最近はノイズアーティストとでも呼べばいいのか?)のyamadaさんが最新作品を送ってくれた。実は今回の作品に自分とこの工房の機械作業音が一部使われているのだ。
 彼の作品ははっきり言って万人向けではない。聞く人の資質を試されているようだ。と書くとまるでこれが理解できない人はクリエイティブにあらずとかではなく、個人の嗜好の問題なのでぜんぜんOKではあるが。
 ノイズ作品以前には割とナイーブな自作の楽曲をシンプル(てかチープ)な多重録音機(パソコン駆使してサイトなんかもちゃんとつくっているのだが、音楽に関しては頑固にパソコン使用せず。ポリシーあり)で作り続けていた。
 本人は、音楽づくりの過程で必然的に「ノイズ」という作風に転じていったのであろうが、われわれ昔からのyamadaウオッチャー(要は友人)たちは突然の作風の転換に「なんなんだこれは?」とエライ不評だったとサイトでは書いてあった(ような気がしたんだけれど、どこだったか忘れた、ゴメン)
 自分はこれら一連のノイズ作品が、なぜか妙に気に入ってしまった。前作を一回聞いたときに「これはオルタネイティブムービー、映像表現を音に変換させたものにちがいない」と(多分えらく誤解しているとは思うが)大感激してしまったのだ。
 彼のサイトではかれの音の対する洋々なアプローチが紹介されています。

 普通の人々にはアニメーションといえば毎週放送が続く例のテレビ番組を思い出すでしょうが、国内や海外のアニメーション作家、つまり個人でアニメを作っている人(おおざっぱな紹介だ)という創作分野がある。そこでは割と「画像に効果音」といったスタイルが普通にあり、画像を作り上げるのと同じくらいの力を「音作り」にも注いでいる。画像→主。音響→従という関係はそこにはない。とはいえ、地方に住んでいたりすると、なかなかそんな作品を見る機会などはない。レンタルにもまずおいてないし...
 こんな感じというのならあります。デビットリンチの「イレイザーヘッド」です。20年前に美術学校の卒業制作で彼が作った作品(だったかな?)彼はその後ブルックスフィルム(知る人ぞしるメル=ブルックス)にて感動巨編「エレファントマン」を大ヒットさせるのだが...その二匹目のドジョウとばかりに劇場公開されたのが、この映画だ。エレファントマンと同じように感動巨編とばかりに押し掛けたカップル達が吃驚して虚脱してその後のデートコースを変更せざるを得なくなるようなインパクトある作品である。誰にもお勧めしません。とまあ、コレならレンタルで割と借りられるんじゃないかな。この映画がつまり「映像」と「音響」が等価なのだ。全編に絶え間なく響き渡り「ノイズ」心地よいかといえば、ぜんぜん気持ち悪い。とにかくヒドイ音なのだが、この音がこの映像には必要不可欠なのだ。

 えらく脱線してきて、何書いているのだか自分でも意味不明になりつつあるのは、いつものことだと諦めてください。てか、まあ簡単に言うと「この音に画像を是非つけてみたい」ということであろう。と。
 もっとも今の自分にはそのスキルもそんな時間的余裕も金銭的余裕もなにもないが...ただ想像するのは自由だ(タダだし)このyamadaさんのノイズを聞いていると、頭の中に鮮やかにイメージが湧いて出てくるのだ。普段はCD聞くときは「ながら」なのだ。音楽聞きながらネット。音楽聞きながら読書...などなど。ところがこのノイズはそのような「ながら聴取」を許さない。理由は先出の「頭にイメージ」だ。その音源が提示するであろう映像イメージが、かなり明確に頭の中に現れてくるのだ。コレでは読書など出来るわけはない。運転中に聞くなど危険極まりなく、もってのほかだ。イメージが、現実のばを離れはるか地平を目指し浮遊し始めるのである。意味不明だよ。

 意味など不明でもいいの。理解しようと思う必要などどこにもない。音の本質を探れば、音という物は世の中に氾濫している。また、視覚というのは目をつむれば情報は入ってこないが、聴覚というのは耳をつぶる?っても情報の遮断は絶対できない。そんなかな、全ての音源情報は耳から脳に入り込んでその全てを定義づけて理解しているというかというと、けっしてそうではない。むしろ選択的に、無意識のうちに取捨択一しているのだ。
 これはよく言われることなのだが、高い音に比べて低い音は聞き取りにくい。音楽などでもギターの音はガンガン聞こえてくるのにベースの音はほとんど聞こえない。聞き取るためにはかなり注意が必要である。口の悪い人はどは「バンドでなんでベースがいるの?」と聞いてくるが、答は簡単である。試しにベースナシの音を聞いてみるといい。とても聞けたものではない間抜けなおとがそこにはある。実際録音時などのレベルメーターをみてもらえば一目瞭然なのだが、全く同等なおおきさでギターもベースも録音されているのである。ではなぜそのような聞こえ方の違いがでてくるのかというと、先出の「選択的に、無意識のうちに取捨択一しているのだ。」ということなのである。自然界においてはどちらかというと高音域の音には、低音域の音より「生命の危険に直結する」音が含まれている。工場の機械音でもそうだが、突然の高音の大音量は機械の不調、あるいは事故の可能性が非常に高い。低音域の音はどちらかというと日常的な作動音のことがほとんどだ。工場環境は自然界とはほど遠いが、やはりここにも自然の伝統とでもいうか生命の危機に瀕したときに発する音「悲鳴」も高音だし、警戒音や威嚇音も高音である。
 yamadaさんのノイズが、このような音に対する無意識のうちの取捨択一を、とりあえず分解して再構成して、自分が聞いている音風景を、もっと普遍的に、つまり「あなたがあなたのあたまで認識している音世界」ではなくて「本来そこに存在している音世界の再構築」をしているのである。なにげに聞いていた音の中ではその音の持つ意味を認識できず、脳内フィルターでふるい落とされてしまった音を、丹念に拾い集め「ほら君のは気が付いていないかも知れないけれども、君のまわりにはこんなにも興味深い音響世界が広がっているんだよ」と示唆してくれているようだ。

 エライおかしな切り口ではあったが、これが自分の持ったyamadaさん最新作「Composition sound at Japanese situattion」の感想である。yamadaさん本人が読んだら「そりゃ違うよ」と笑われそうだが、yamadaさんのことだから「そんなこともあるカモね」とおおらかに受け止めてくれそうな気もする。ま、作品というのは作者の手を放れた時点で(例えとんちんかんであろうとも)どのように評論されるのは論者の自由であろうと思いますから、yamadaさんには軽く目をつむっていてもらいます。

 「Composition sound at Japanese situattion」はyamadaさんのサイトでも販売しています。興味があったら是非買ってみてください。ただ、最初にいっときますけど、ぜんぜん万人向けではありませんよ。歌はありません。曲もありません。ただノイズサウンドが延々流れ続けます。初心者は覚悟の上でどうぞ。