「終戦のローレライ」福井晴敏

終戦のボーイ・ミーツ・ガール
去年の年末を読書で過ごすべく果敢に読み出した本書ではあったが、あまりの厚さに結局年を越してしまいようやく読了。長かった〜。
太平洋戦争終戦間際、すでに瓦解したナチスドイツの潜水艦「伊507」を譲渡され、ナチスが開発した究極兵器「ローレライ」の回収に向かう。そしてローレライの謎が明かされる上巻。うってかわって下巻。諸外国に対して未だ敗戦を経験したことのない大日本帝国は、戦争の負け方を知らない。その太平洋戦争の最終局面に「大日本帝国介錯をする」為の取引材料としてローレライを伴い伊507は出航するのだが...裏切りと陰謀渦巻く終戦間際。まだまだ二転三転するストーリーの先にあるものは何だ?圧倒的なアメリカの力の前に開戦前から負けることが決まっていた太平洋戦争で、日本敗戦のあるべき姿とはなんだ?
時代背景を鑑みても、あらすじではまるで「大政翼賛小説」に思える。が、そんなことはカケラもない。過去に実在した時代を舞台に福井晴敏が一体どんな戦争解釈をするのか、期待半分、不安半分だった。「タイムスリップしてきた未来兵器を手に入れた痛快な仮想大戦記」という、考えられる限り最悪な展開では全然なかった。ま、このあたりの読む前にタイトルから内容を強引に憶測してしまうのは、自分の悪い癖ではあるが。そして自分の読後感を一言で表したのが先の一文「終戦のボーイ・ミーツ・ガール」である。
泣けましたよ(←こればっかりだ)人の命がとても安かったじ時代背景であろう。次から次へと人が死んでいき、これだけ人が死んでいくストーリーは「宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」以来だなどと不謹慎なことを考えてしまうが「亡国のイージス」のと同じく、人はどんな時代でもイデオロギーや国体維持や上意下達では命などをかけないのだよ。
いつものように戦闘シーンは激しさを増し、いやが上にも盛り上がる。しかし、それと同等かそれ以上の緻密さで潜水艦内の生活描写や心理描写に重きを置いている。ソコまでしないとこれだけの説得力を持ったストーリーにはならなかっただろう。戦闘シーンだけなら架空戦記物に任せて、そこから一つ抜け出す作品にはそれなりの努力が必要だ。というか...
この本をネタバレにならないように絶賛するにはどうしたらいいんだ?
とにかくだまされてと思って読んでくださいとしかいいようがない。自分を信じてくれ。いつものようにかなり長めのエピローグが救いだ。ターンエーガンダム以降のエピローグの秀逸さには頭が下がります。
ここまで書いて気がついた。全然本編内容にふれていない、しょうもない感想文だ。
福井晴敏の作品はそれぞれが大きな福井ワールドと呼べるような、壮大なつながりを持っている。といえば大げさだが、簡単に言えば「ダイスシリーズ」だ。もちろん「終戦のローレライ」にはその政府秘密機関であるダイスは出てこないが、ラストあたりでそれを思わせる描写がある。そして超未来の話「ターンエーガンダム」ではダイスこそ出てこないが、福井晴敏作品にはお馴染みの毒ガス兵器がチョットだけ出てくる。まるで手塚治虫の「火の鳥」の様に黎明編と未来編とをつなぐ作品を延々生み出していったように「終戦のローレライ」もいつか「ターンエーガンダム」につながっていくのだろうか?アシモフの「ファウンデーションシリーズ」のように、アシモフ死後もつづきが他の作家によって語り継がれていくようなそんな作家に...や、話が大げさすぎました。
さて今日図書館に本を返しに行くと、予約していた本が来ましたとの事。予約した本とはいわずとしれた「6(シックス)ステイン」である。まだしばらく福井晴敏熱は続きそうである。
ところで今年は「亡国のイージス」と共にこの「終戦のローレライ」も映画化されるわけだが、非常に不安なのである。これだけ膨大なストーリーを2時間くらいの作品にしようとすると、ストーリーに関係ない日常生活や登場人物の心理描写などが真っ先にカットされるであろう。その先にあるのは言わずもがな「戦争映画」である。戦争小説ではあるがそれだけではなかろうこの作品が、そのような扱いを受けないことを祈る。てか、「亡国のイージス」の感想書いたときも同じようなこと書かなかったか。どうも憲法改正論議も大詰めを迎えそうな今年に、あえて福井晴敏作品が二つも映画化される事が、しかも自衛隊が全面協力とか、考え過ぎかもしれないけれど。

終戦のローレライ 上

終戦のローレライ 上

終戦のローレライ 下

終戦のローレライ 下