「世界の中心で愛を叫んだけもの」ハーラン・エリスン

以前、短編の「世界の中心で愛をさけんだけもの」だけ読んで訳がわからないと弾劾書評をしてしまったが、それではイカンと思い直し、世界の中心で愛をさけんだけもの以外も全部読んでもう一度書評しよう。しかもご丁寧に世界の中心で愛をさけんだけものだけは三回読んだぞ。三回読んだ感想だが、三回読んでもサッパリわからないぞ。一体どういった巡り合わせからヒューゴー賞の短編部門を受賞してしまったんだ?よほど不作の年だったのだろうか?しかしエリスン、このほかにも何度も栄冠に輝いているところを見ると、ひょっとしてコレはハリスンバブル?と、疑いたくなるほどの大活躍だ。
そんなことはともかく、とりあえず短編集「世界の中心で愛をさけんだけもの」の全作品を読了したわけだが、表題作世界の中心で愛をさけんだけものをのぞいては比較まともというか、実に取っつきやすい短編ばかりだったので意外だった。モチロン、アイディア満載で、短編にしておくにはもったいない。コレ一冊のネタで長編小説が何本も掛けるのではないかという大サービスぶり。振り合えると、この年代のSF小説ってそういった作品が実に多いと感じる。現在のように普通に500ページを超える作品が乱立する時代からは想像もつかない現象だ。きっと近年は出版社から「売り上げと厚さは比例しますよ」とか悪魔の囁きを聞かされているのかもしれない。
ところで本書だが、イーガンやクラークのような科学知識ガチガチのハードSFではない。むしろサイーバーパンク(てか、こっちの方が先だが)からサイバーを差し引いたような小説だ。ん...パンク小説。いやまさに言い得て妙のパンク(不良)小説だ。ろくでもない主人公がろくでもない事件に巻き込まれろくでもない結末に陥ってゆく。文体自体が日本語に翻訳された時点でどうなっているのか原書を読んでいない(てか英語読めん)自分には何とも言えないが、奇妙に熱がこもった疾走感あるストーリーはSFというよりはむしろ町田康である。
町田康がSF書いたらまず間違いなくこんな感じになるであろう(←そうか?)
まあ、中にはエベレストで遭難して、イエッティに助けられ、初めて真の愛に目覚めるジゴロ...なんていうワケの計らない屑も混ざっているが(自分で書いていてもわけがわからん)全般的にはちょっと古さを感じるが(そりゃ自分が生まれた頃に書かれた作品だから)かなりおもしろい。アイディア一発勝負的に陥ることなく、自らの妙に醸し出しているところがエリスンの魅力であろう。
自分的に一番好きなのは「星々への脱出」という一編。驚異の侵略者キバ星人に追いつめられた惑星開拓団はその星をあきらめ地球に向けて脱出することにした。その際キバ星人から脱出時間を稼ぐために、ジャンキーで人間のくずの地球人(主人公)を選び、彼の体内に惑星が一瞬に太陽状態になるような究極破壊兵器を埋め込んだ(そんなスゴイ兵器があるのなら、とっととキバ星人に向かって投げつければ勝てるだろうにと言うツッコミはナシだ)そんなモノを体内にインプラントされちまったジャンキーで人間のくずの地球人の主人公は必死で逃げまどうのだが、逃げれば逃げるほどキバ星人の究極兵器探索は遅れ、その時間稼ぎの間に惑星開拓団は無事地球へ逃げ帰ることができるというわけだ。ジャンキーで人間のくずの地球人(主人公)は(←しつこい)必死で逃げ回るが、しょせんはジャンキーで人間のくずなので、途中でもう捕まるのは時間の問題。ところがギリギリ追いつめられた時から、とてもジャンキーで人間のくずとは思えないような超人的な策略でもってキバ星人を出し抜き、自分をこの様な目に遭わせた同胞(惑星開拓団)への復讐を誓うのであった。
あらすじ全部書いてしまった〜しかもこのあらすじじゃあまりおもしろそうに見えないなあ...そうだな...主人公のセリフが仮に全部大阪弁だと仮定しよう。読者の脳内で標準語を大阪弁で補完してあげると、あら不思議、どう考えても町田康が書いたSF小説にしか見えなくなる。お試しアレ(←おいおい)