「グレート・ギャツビー」スコット・フィッツジェラルド、村上春樹 訳

村上春樹がいたるところで大プッシュしている本書であり、大御所自らが翻訳したこともあり、非常に期待して読んだのだが、一体どこがそんなにすごいのか、サッパリ解らなかった。
しかも、訳者後書きには「アレってそんなにスゴイ作品なんですかねって口にする人たちがいる」と自らが書いているように、ヤッパわからないひとにはわからないのだなあと...そんなわからない人の一人として自分もいるのだなあ....
作品自体は淡々と進み、あまりにも理不尽というしかないようなラスト。どうもギャツビーもまともな手段で現在のグレートな地位まで昇ったのではないことは確かなのだろうが、その因果応報としては、余りにあっさりしすぎている。物語全体こそ華麗だけれど、孤独な富豪の悲しい生涯...しょっちゅうホームパーティーをおこない、それなりに来客も多くにぎわっていたにもかかわらず、彼の葬儀には誰一人出席しないという悲しい結末。有り余る財産を持ってしてもなにも心を満たすことができない虚無感に満ちあふれている。
ところでグレート・ギャツビーといえばすでに「華麗なるギャツビー」という名で新潮文庫(だったかな?)からかなり昔に出版されており、映画も作られていた。公開当時は多分全く話題にもならなかったであろうが...だが自分は覚えている。モチロン見たワケではないが。当時中学二年生だった。そのころ一世を風靡した映画が田舎で上映された。ソレはかの名作「エマニエル夫人」だ(←おいおい)モチロン教室の悪ガキ男子中学生はその話題で盛り上がっていた。さてその際に同時上映(昔は単独ロードショウなんてなかった。たいていの洋画は二本立てだ)がこの「華麗なるギャツビー」だった。エマニエル夫人を見たい男子中学生は、少ない小遣いから映画を見なければならないので、当然前売り券を買うわけだが、その際「エマニエル夫人ください」とはいえないので「華麗なるギャツビーください」といったのだ。当時は成人映画はあったけど、R指定なんていう微妙なモノはなかったから、確かエマニエル夫人も普通に見れていたと思う。見てきた同級生は、翌日にはクラス男子生徒のヒーローになったことは言うまでもない。
すみません、ギャツビーの思い出というと、こんなのしかないのですよ、自分。

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)