「悪霊」ドストエフスキー

自分はもうすぐ47になるんだよね。世間的にはいいオヤジだよ。
そんな自分がまさかこの年になってドストエフスキーにハマルなんて、どれだけ遅れてきた文学青年なんだか。別に文学青年ぶっているんじゃなくて、おもしろいから読んでいるだけで、どうこう言われたくないよ(←ちょっとツンデレ風にすねてみた)
といった感じにドストエフスキーといえば成長期における通過儀礼のようなイメージが強い。そると、ようやく成長してきたのかもしれないな自分。
くそ難しいロシア文学といったイメージが強いドストエフスキーではある。確かに今まで何冊か読んできたけど、特に文庫本数冊にまたがるような長編はほとんどの場合、上巻が非常に取っつきにくい。だいたい最初の100ページくらいが「放り投げる」か「続けて読む」かの分岐点だ。本書も二年くらい前に読もうとしたが、40ページくらいで挫折してしまった。まさか下巻がこれほどスゴイ作品だったなんて思いも寄らなかった。
「上巻は読了まで一ヶ月、下巻三日」というペースで読む人がほとんどではないかと思うのだが...自分の常識を人もそうだと当てはめるのはまずいか?でもそんなことを金原ひとみカラマーゾフを表していっていたようだから、あながち見当違いでもあるまい。
そんなペースでようやく読了した本書だが、読んでいる間「一体誰が『悪霊』なんだ」という事ばかり考えていた。物語の流れから行くと当然主人公のスタヴローギンこそが悪霊なのだろうと思ったのだが、どうもそうではないような気がしてならない。容姿端麗、頭脳明晰、それでいて決闘マニアのならず者。男女を問わずその心を魅了せずにはいられない悪のカリスマ〜!!...ってイメージがあったのだが、どうもイメージ先行で、本人はいたって常識人であった。インチキ革命家のピヨートルが一生懸命そそのかして、自分たち革命グループの象徴的指導者になってもらおうと思うのだが、にべもなく断るところなんかは「どこが悪霊やねん。いたって常識人じゃないか」あるいは妙ないいがかりをつけられ、やむなく決闘ということになったとき、スタヴローギンはあえて相手を狙わず、空中向けて銃を撃ち、人格者ぶりを見せたり。それまで彼を取り巻いていた噂「人格崩壊者で決闘マニア」というのはいったい何だったのだという拍子抜けだ。
むしろ悪霊的なのはスタヴローギンに結社への強力を断られ、ヘロヘロに泣き崩れるピヨートルの方だ。実際には存在しない国際的秘密結社が、いかにもあるようにいいくるめ、その支部を作るために故郷へと帰ってきたと称し構成員を増やしている。その組織の結束を固めるために、組織内の裏切り者(とされているだけで、実際にはどうもちがう)シャートフ殺害を企てる。
このほかにもいろいろな陰謀が渦巻き、複雑に絡み合う物語は終盤、やけくそのようなカタストロフィへとなだれ込み...どいつもこいつもゴロゴロ犬死にしていくのであった。主要な登場人物のほとんどが、まるでその必然性がないのに、ごろごろ犬死にしていくのだから、訳がわからない。
いったい何だこの狂騒は!
この狂騒こそがドストエフスキーなのだ。
結局悪霊的な登場人物達が死にまくったところで物語は終了するのだが...話はここで終わらなかった。すべてのストーリーが終了した後に、まるでオマケのように「スタヴローギンの告白」という一章が挿入されている。はてこれはなんだ?
解説によると、本来なら悪霊三部作の第二部と三部をつなぐ重要な章だったのだが、その内容のあまりに反社会的なのに編集者が掲載を拒み、ドストエフスキーは以降の物語を大幅に改編せざるをえなくなったという。
「スタヴローギンの告白」この章で、やっとドストエフスキーがいわんとしていた「悪霊」の正体が書かれているのだ。ああそうか、そうだったのかと納得がいったよ。つまりあれだ、スタヴローギンこそが悪霊なのだが、その悪霊はスタヴローギンではなくて、彼の頭の中にある分裂的な精神(不適当だが、ほかに書きようがない)であったのだ。
もうめちゃくちゃすぎて、自分はあっぷあっぷです。こんな問題作品を130年も前に書いちゃうドストエフスキーは、バケモノだ。

悪霊(上) (新潮文庫)

悪霊(上) (新潮文庫)

悪霊(下) (新潮文庫)

悪霊(下) (新潮文庫)