「本棚探偵の冒険」喜国雅彦

....スミマセン、昨日の日記でこの本のことを「古本探偵の冒険」と書いてしまいました。うーん、あたらずしも遠からず。
話はかわるが...昔からの友人でいつの間にか売れっ子イラストレーターになっちゃった人がいる...そいつの逸話がスゴイ。どういう風にスゴイかというと...仕事(当然イラスト描き)をずっとやっていて、くたびれてくると「あ〜そろそろ休憩するか」と言ってマックを立ち上げる。呼び出すアプリはペインター。しばらくペインターでコネコネ絵をかいているが...しばらくして「よし、休憩終わり」と、描きかけイラスト製作の仕事に戻る。結局ずっと絵を書き続けじゃないか?休息なしにイラストを描き続ける彼に感嘆を感じたものだった。
あれから十数年。振り返るは自分。
最近はかなり厚い本ばかり図書館から借りてくるので、読了するまで非常に時間がかかる。自分は速読派ではないので...どんなにおもしろい本であっても、途中で心がなかだるみのようになってしまうのは否めない。そんなときのために軽く読めそうな本を、長編小説を読むときには一緒に借りることにしている
今回「アラビアの夜の種族」という大長編を読むに当たり、副読本(ってか、ソレは副読本の定義と違うと思うが)として借りてきたのが、本書。「アラビア〜」読んでいてくたびれたときに「あ〜そろそろ休憩するか」と読んだ本だ。
ということは自分の読書ライフというのは、先出のイラストレーター並に極まったってコトか?プロフェッショナル「読書家」として文壇デビューできるのではないか?自分。
どうやって収入を得るつもりだ?
あ、シマッタ。今更もう皆も慣れていると思うが、肝心な書評をほったらかして脱線しまくっている。
さて「本棚探偵」であるが....内容はただただ趣味に任せて集めた古本とそれにまつわるエピソードを漫画家(でいいんだよな)喜国雅彦がつづったエッセイ。普通におもしろいです。ただ...自分には蒐集家としての資質が根本的に欠けているので「そこまでなぜする!!?」という疑問が常につきまとう。
たとえば「集める本と読む本は違う」自分にとって、読まない本には意味がない。むしろ一度でも読んだ本は「ああ、あの本よんだんだな〜」と満足してしまう自分には理解不能だ。本は読むためにあるのであって集めるためにあるのではない。
ひょっとして、まだ自分の読書人生が喜国雅彦のそれに足下もおよんでないからなのであろうか?
そして、あたりまえのことだが...著者の自宅の書庫の蔵書に比べて、自分の蔵書の貧弱なこと。そりゃそうだ、金に困ってブックオフのお世話になったコトは一度や二度ではない。正直言って自分の本棚に未だ収まっている本は「どうしても売りたくない本」...ほとんど水木しげるのマンガ...だったり「ブックオフで買い取り拒否された本」...最近はこっちの本の方が本棚の占有率が高い...といった状況である。読みたい本はほとんど図書館から借りてきて読み、それで満足している次第なのだ。
つまりその満足の記録をこうして日記としてつづっているわけであって、たまたまその日記というのが「はてなダイアリー」であっただけのコトだ。
特に公開しなくてもいい日記なのかもしれないけれど、多分自分と同じような「コレクターでない図書館超絶利用派」的な同志に自分の存在を知って欲しかったのだ。
結論。本棚探偵の蔵書はとてもうらやましくもあるが、多分自分はそれらを一度読んでしまえばすっかり満足してしまう人種なのだと再確認した。自分にとって本とは「集める」ものではなくて「読む」ものなのだと。かといって本棚探偵を否定するものでは決してない。むしろ、おもしろそうな大正、昭和初期の探偵小説をいろいろ紹介してくれるので、ますます図書館蔵書検索に励みが出る。できることなら全部読了したい。大正昭和の探偵小説だけではなくて、最近の作品もいろいろ読みたいので、速読できない自分にはおのずと限界があるのは否めない。そんな中でも本書で紹介された本のうち何冊かでも目を通すことができれば、自分はただただ満足である。
ちなみに本書で紹介されていて、自分が読了したのは「ドグラマグラ夢野久作と「黒死館殺人事件小栗虫太郎だけだが...まだまだ修行がたらん、自分。

本棚探偵の冒険 (双葉文庫)

本棚探偵の冒険 (双葉文庫)